そば屋のおやじのひとり言

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                    『顧客満足提供業』
 私はそば屋を営んでいる。そば屋は飲食業に分類されるが、飲食業に限らずサービス業全部をまとめて別の呼び方をしたらどうなるだろうか?

「顧客満足提供業」と言い換えることができると思う。

お店に来ていただいたお客様に満足を満喫してもらい、ニコニコで帰ってもらう。お店に来ていただいた方だけでなく、自分の商売にかかわっていただいた方全部に満足を提供する。そんなことができないだろうか?

そのためにはまず何が必要か。それは自分の職業が大好きでないとだめだ。
テクニックでも、ある程度お客様を満足させることはできるかもしれない。しかし、家業として10年・20年・30年と続けていくうちには、必ず歪みとなって出てくる。最初から定年まで、自分の好きな仕事ができる人なんかめったにないと思うが、最初は嫌いでも徐々に好きになっていくことはあると思う。

「石の上にも三年」ではないが、我慢や辛抱しなければいけない時期はある。しかし、目標さえあれば、少々のことは乗り切れるんじゃないか。とにかく「好きこそものの上手なれ」である。最終的には、好きでないと長い間「満足」を提供することなんてできない。

それじゃあ、「満足」ってなんだろうか?

満足を提供する事って、言い換えるとどういうことか・・・。
なかなか言えそうでいえない。頭の中ではわかっていても、言葉に出して説明するとなると詰まってしまう。

いろいろな言い方はあると思うが、「ギャップを提供する」というふうには言えないだろうか。
人間には、「喜・怒・哀・楽」という感情表現がある。いったいどういう時に感情を表現するのか?

それはギャップを生じたときだ。

思ってたよりも嬉しいことがあったときは、喜ぶし楽しく感じる。また、思ってたよりも嫌なことがあったときは、悲しいし怒るだろう。満足を提供するということは、その中の「喜」と「楽」にあたる。思ってたよりも安かった・美味しかった・サービスが良かった。そんなところに「満足」を感じるんだろうし、その「ギャップ」が大きければ大きいほどその満足度も跳ね上がる。これは「付加価値」ともいえる。
ただ、間違いのないように言っておくと、これは「奇をてらう」と言うこととはちょっと違う。最低限と言うか、ある一定の基準までレベルが底上げされていなければならない。

しかし、不思議なもので、前評判が高かすぎると いくら美味しくても「それほどでもないんじゃない」となってしまう事もあるし、そこそこの店でそこそこの料理を食べてもびっくりするほど安いと「これだけ食べてこの値段?得したな〜」となることもある。つまり、そのあたりをつかんでいれば、ある程度「満足感」って演出することができるんじゃあないかと思う。

しかし、ここで押さえておかなくてはならないのは、自分が基準でなく、お客様が基準になることだ。先ほど、「思ってたよりも嬉しいことがあったときは、喜ぶし楽しく感じる。また、思ってたよりも嫌なことがあったときは、悲しいし怒るだろう。」と言ったが、ここで言う「思ってたより」というのは、お客様であり自分ではない。そして、その基準は一定ではなく人によって全く違うということだ。同じものを同じように提供しても、人によって満足度は千差万別なのだ。

無責任な言い方だが、何がどうなってかは知らないが私はそばを生業に選んだ。全速力で突っ走ることもあれば、惰性で走る時もあるかもしれない。立ち止まってしまうかもしれないし、後戻りすることがあるかもしれない。
しかし、どんなときも「そば」を好きでありたい。

                   『人類最期の日?』
昨日、2019年だったかに地球に隕石が衝突するかもしれないってニュースをやってた。確率は数万分の1〜100万分の1

それって、ぶつかるぞって言ってんの?  ぶつからないぞって言ってんの?

でもその確率ってどうやって計算すんの?えらいアバウトだけど。

でも、もし衝突するとしたら、やっぱりアルマゲドンみたいに核爆弾で爆発させるのかね〜。

早いこと、ブルース・ウィリスにNASAに入ってもらって、訓練受けてもらった方がいいんじゃないか。

それから、AJにはドリルは2本じゃたんねえから、もっと持っていくように言っといてくれ。

                『人(ひと)の間(ま)とかいて人間』
 人(ひと)の間(ま)とかいて人間(にんげん)とよむ。人は一人では生きていけない。絶対とは言わないが、まず無理。

  「もう嫌だ。付き合いもしがらみも仕事ももうたくさん。誰の世話にもならん。どこか山にでもこもって一人で生きてゆく」
    
と言ったやつがいた。実際、何年間か山で生活したそうだが、俺は紛れもなくその数年間は一人で生きたんだと自慢げに話してくれた。
そこで、ちょっと聞いてみた。

   「あんた どこで寝てたんだ?」

   
「テントで寝泊りした」

   「そのテントは自分で作ったのか?」

   
「ああそうだ。自分で組み立てた」

   「いやいや そうじゃなくて、テントのナイロンから骨組みの金属・ロープ・ペグなんかどうしたんだ?」

   
「組み立てたのはわしだが、テントはアウトドアグッズ店で買ってきた。」という。  

まあまあ いい。

   「それじゃあ 食べ物はどうしたんだ?」

   
「米とかいろんな野菜や果物の種は持っていった」

   「おお えらい。自給自足か?」

   
「いやほとんど育たず、それまでの食料もつき、我慢できずに山を降りコンビニで弁当を買った」

   「買った買ったというが、そのお金はどうしたんだ?」

   
「近くのATMでおろした」

ちょっと待ってくれ。全然一人で生きてないじゃないか。一人で生活するのと、一人で生きるのは全く違う。
大体お金っていうのは、人間が作った人間の社会だけで通用する約束事だ。一万円札作るのに別に一万円かかってるわけじゃない。一万円相当のものと交換するよって言う 人間社会の中での約束事がなければ、あんなものはただの紙切れだ。そういうものの後ろ盾があってはじめて、あんたは数年間暮らせたんだ。決して一人で生きたんじゃあない。

 全部を捨ててゼロから一人でやるなんてことになったら、たいがいのやつがのたれ死ぬ。日本に限らず、場所によっては火さえ起こせず、水一杯もめずに死んでいくやつがほとんどじゃあないか。

さっきのやつに「火はどうやって起こした?」と聞いたら、ニヤッと笑って「100円ライター」と答えた。

もう一度言うが、人は絶対一人では生きて行けない・・・。と思う。
という事は、人間社会の中で生きていかねばならないということになる。

   「人という字はお互いの棒と棒がもたれあっているように見える。だから人間は支えあって生きていくんだよ」

と 3年B組 金八先生は教えてくれた。だけど、人間にもいろんなのがいて支えあおうとしないものもいる。支えあおうとしないどころか、押し倒して危害を加えようとするものまでいる。そこで大事になってくるのが人(ひと)の間(ま)だ。
なんか難しいので言い換えると、人と人との距離ということにならんだろうか。

好きな人には近づけばいいし、嫌なやつには近づかなければいい。ただ相手がどう思うかは知らんけど。だけど、たいがいの場合、こっちが嫌ったらなんとなくそれが伝わって相手も離れていくし、こっちが好いたら、相手にもそれが伝わって、何らかの行動に出て距離を保とうとするはずだ。

   「な〜んだよかった。これでもめごとは起きないぞ・・・。」

甘い。人間社会には距離の取れない場所がある。好むと好まざるにかかわらず、ある一定の距離の中に毎日押し込まれている。

それが、「学校」・「会社」・「家庭」だ。

嫌で嫌でしょうがないやつと同じクラスになっちまった。しかも隣の席。どうしても好きになれない同僚・上司がいる。しかも同じ部署。   距離のとりようがない。うまく立ち回る人もいるが、長い時間のうちには歪みが起こる。

   「あんたの こういうところは違うんじゃないか?」

   「あんたの ここは認める。だけどあそこは我慢できんのだ。」

   「いやいや そういわれるなら あんたのこれはどうだ。決して誉められるもんではないぞ。」

   「ああそうだったのか。あんたの言うことも もっともだ。 あんたそれほど悪い人ではないな。」

こんな具合に話し合いで解決できればいい。いやむしろ話し合いさえすれば解決できることがほとんどなんだろうが、たま〜に厄介なのがいる。

 学校での「いじめ」なんかも、ある意味 距離のとれない「学校という名の密室」に押し込まれることにより起こっているんじゃないかと思う。これが大学のように広いキャンパスで、受講科目も自分で選択し、座る席も自由。登校時間も下校時間も特になく、自分の受講する授業に合わせ、テストの点さえとってれば単位はあげるよ。なんていう義務教育なら「いじめ」なんて起きないように思う。まあこんなことは無理だし、これはこれで また別の問題があるようには思が・・・。
友達との付き合い方なんてことだれも教えてくれんし、そんなことは自分で身につけるもんだけど、距離のとれる環境ぐらいは作ってほしい。

 お父ちゃんやお母ちゃんが毎日せっせと出勤する会社も同じようなもの。今まで、嫌いであまりしゃべらず、顔を合わせず距離をとってきた人とある日突然同じ部署になった。しかも隣の机。好きな人なら問題ないが、とにかく嫌いな人。さっきみたいな話し合いで緩和されることもあるだろうが、そうでなければ最悪だ。今までは距離をとることで何事もなくおさまっていたが、その距離が第三者の手で無理矢理 短くされると いずれ歪みが出て問題が起こる。

会社だけに、利害関係なんかが絡むと厄介だ。
「あの会社の社長は生理的に嫌で嫌でしょうがない。でも、今日の接待を断ると大口の商談に支障が出る」なんてのもそういえるかもしれない。

すべて、人と人との距離が取れないことにより問題が起こっている。とにかく、間(ま)が悪いと問題がおきやすい。

 最後に家庭。これはちょっと前出の二つとは違う。
何が違うか・・・・・。

血がつながっていることだ。もちろん、お父ちゃんとお母ちゃんはもともとは他人だが、結婚したという事は、世界中の誰よりも近い距離で、今まで自分たちが生きてきた時間よりはるかに長い時間一緒に暮らすということを、お互いが了承したということになるから とても結束は固い。普通は。

経験したことがないだろうか。他人とだったら取っ組み合いのけんかになりそうな夫婦げんか・親子げんかのあとで、同じテレビ番組を見て、同じように馬鹿笑いしたことや、次の日の朝にはケロッとして忘れてしまってること。
しかも、それを不思議に感じることさえあまりない。

これを、私は「血のきたなさ」といっている。
良きにつけ悪しきにつけ血縁だから なあなあになってしまうことだ。

とにかく誰との付き合いよりも近い距離で生活する。それが苦痛にならない。普通は。
特に子供なんかは、お母ちゃんからゼロの距離で出てきたんだから苦痛になんかなるはずがない。普通は。
それだけにこの関係がこじれたときは、距離が取れないだけに厄介かもしれない。

それよりも、「家庭」の中で一番厄介なのが嫁と姑だ。たまに、これに小姑なんかがエントリーする。この3人は血のつながりがない。
いやいや、姑と小姑は親子だから、たいがいの場合は、嫁VS姑・小姑の戦いの図式になる。
この両者には「血のきたなさ」がないのだ。アバウトというかアンニュイ(ふるっ)と言うか「まあまあ ええか」という白とも黒ともつかない灰色の部分を良しとする気持ちがないし、専業主婦の場合、一日中一緒で距離のとりようがないから問題が起こる。

そんな場合、お互い別々の趣味を持つとか、外に働きに出るとか、距離をとることで少しは緩和できないだろうか。もちろん腹を割って話し合うことも大切だと思う。
そのうち、おたがいに好きになってしまえば、もっと近くにいたいと思うんじゃないの。
そんな簡単な問題じゃないって怒られそうだけど、うちの親はまだまだ元気で別居しているので、幸いにもそんな問題は起こったことがない。

 距離のとりにくい場合について書いたが、プライベートには役立つ。
ほぼ毎日のように顔を合わせる人・週に数回・月に数回・あるいは年に数回の人。嫌いではないが、これ以上近づくと相手や自分の嫌なところが見えてしまいそうだから、これ以上近寄るのはやめようとか・・・。あっ この人こんなところもあったんやもうちょっと近づいてみようかなとか。
自分の居心地のよい距離で付き合えたら、もっともっと楽しい毎日が送れるような気がする。

                    『あいさつの不思議』
 「おはよう」「こんにちは」「こんばんわ」「ごきげんよう」「おばんです」「まいど」「さようなら」などなど。数え上げたらきりがないほど挨拶の言葉があって、無意識に使い分けてる日本人。 方言も入ってるし、挨拶と呼べるかどうか怪しいものまであるが・・・。

 特に「まいど」。関西で使われる挨拶?だが、これはなかなか便利。親しい友人にも使えるし、年上の人にでも「まいどどうも」と一言つけるだけで使える。もともとは『毎度有難うございます』という商売用語だと思うが、感謝の気持ちと親しみがこもっているように感じるのは私だけだろうか。しかも「まいど」は、朝・昼・晩関係なく一日中「まいど」である。
初対面の人にはちょっと使えないが、とにかく町中「まいど」が飛び交っている。

 「おばんです」・・・。 まず使わない。時代劇ならまだしも、日常会話には普通ない。
「ごきげんよう」これはどうか。最近、毎日放送の某番組でよく聞くが、空腹で明らかに機嫌のよくない出演者に向かって、眉間にしわを寄せながら「ごきげんよう」はないんじゃないか。

 それでは、「おはよう」「こんにちは」「こんばんわ」はどうか。どれも毎日繰り返される挨拶だが、いったい、いつからいつまでが「おはよう」で何時から何時までを「こんにちは」 何時までを「こんばんは」って言ったらいいのか考えてみた。

朝「おはようございます」と挨拶して「こんにちは」と返された経験はないだろうか。

     「いつまで寝ぼけてんだよ。お天とうさんはとっくに上がってるってんだよ」

なんか一歩先をいかれてるようで、こっぱずかしい。
それじゃあ、「おはよう」と「こんにちは」のさかいは何時か?AM8時は勿論おはよう。AM9時 まだおはよう。AM10時 き き きわどい。けど まだおはようか? でも11時 これは自分的には
こんにちはに入る。それじゃあAM10時30分は・・・。  おはようだ。今 私の体が、おはようと言った。どうやらAM10時30分〜AM11時の間にさかいめがある。
AM10時45分。う〜〜〜〜ん 「こんにちは」がだいぶ見え隠れする。「おはにちは」と言いたいが おはようだ。
完全に「こんにちは」に変わる時間は何処だ。10時46分・47分・48分・49分 来た 来た 来た 来た AM10時50分これが私の「おはよう」と「こんにちは」のさかいめに決定した。

 それでは、「こんにちは」と「こんばんは」のさかいめは
・・・。
これはちょっと厄介だ。夏と冬で大きく変わる。普通に考えるとPM6時前後のように思うが、夏の時期 PM6時はまだ明るい。日中のように明るいのに「こんばんわ」はおかしくないか?冬のPM5時 天気が少しでも悪いようなら真っ暗。でも、いくら真っ暗と言ってもPM5時に「こんばんわ」はないんじゃないの。逆も言える。夏の時期 いくら明るいからといってもPM7時に「こんにちは」はないし、冬の時期 PM5時だと言っても真っ暗なのに「こんにちは」は言いにくい。あ〜わからん。ちょっと変になりそうなので次。

 「こんばんわ」と「おはよう」のさかいめ。これは簡単。寝るまでが「こんばんわ」で、朝起きたら「おはよう」だ。でも、一晩中おきてると仮定するとどうだ。AM5時。私的には、これは「おはよう」。AM4時。これも「おはよう」。AM3時これは「こんばんわ」だ。う〜ん どうやら4時の声を聞かないと朝と言う実感が私にはない。したがって、「こんばんは」と「おはよう」のさかいめはAM4時となる。


 同じ事をアルバイトの高校生に聞いてみた。

「おはよう と こんにちは のさかいめは?」

「う〜〜ん 雰囲気」

「えっ 雰囲気? ふ〜ん」

もしかしたら、追求する必要のないことを追求してたか?。つまり、簡単に言えば どうでもいいこと。
人には、白とも黒ともつかない灰色の部分がある。それをあえて追求しようとすれば、うまくいかなくなることが多々ある。
人はアナログであり、時と場合によってデジタル的に考えることはあっても、根本は絶対にデジタルになってはいけない。


まっ それほど大げさなことでもないけど、ひとり言ですから・・・。

kogetudo@izushi.jp

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